ヒモにならないか?
待ち合わせの時間を二十分過ぎても連絡一つ寄越さない相手に吉田岳はイライラしていた。待ち合わせの相手は愛梨という女で、岳が働いていたホストクラブで出会った。年齢を誤魔化すためか似合わない厚化粧をしていて、いつもふっくらした身体からきつい香水の匂いを漂わせている女だ。愛梨とはホストを辞めてからもたまにセックス込みのデートをしている。愛梨とのセックスは億劫だが、タクシー代として貰える三万円のためならば造作も無い。岳はまだ来ない愛梨に耐えかねて携帯に電話をかけた。数回のコール音で通話は切られ、すぐさま「ごめん今日無理。あと、もう連絡しないで」とメールが届いた。速攻で「ふざけんな、ブス」とメールを返したが、既読はつかない。岳はチッと舌打ちをして乱暴に携帯をポケットに突っ込んだ。愛梨に裏切られた怒りに重ねて、目先の収入がなくなったことに腹が立つ。愛梨から貰えるはずだった三万円がないと宿代どころか食費も捻出できない。しかも今岳が居る待ち合わせのカフェで支払ったコーヒー代が無駄になった。何の腹の足しにもならないコーヒーに数百円払ったことに苛立ち、目の前のコーヒーカップを床に投げつけたい衝動に駆られたが、想像に留めた。その代わりに貧乏ゆすりが激しくなり、つま先が異様に尖った革靴からコツコツと音が鳴る。
ホストを辞めて半年、金払いが一番良かった客の家に転がり込んだが先月追い出された。岳が持っていたブランド品は全て売り払われ、宿も財産も失った岳は元客から金をせびって生活していた。しかし最後のツテである愛梨も切れてしまった。もう寝ぐらとしているネカフェも出て行かなくてはいけない。岳は言葉にならない不安と怒りに押し潰されるようにテーブルに突っ伏した。
視線が低くなったことによって隣の席に横倒しに置かれた鞄の中身が見えた。分厚いファイルに入った書類とパソコンの上に財布らしきものが乗っかっている。茶色の革でできている財布は底の方からずり落ちて鞄の入り口付近にある。このまま手を伸ばしたら届く距離だ。岳の頭に「窃盗」の二文字が浮かんだ。
テーブルに突っ伏したまま視野に入る客を見渡した。岳の席の正面、カウンター席にはスーツ姿のサラリーマンと学生が背を向けて座り、隣を跨いだ席では若いカップルが話に夢中になっている。角に座る岳のを注視している人は見る限りおらず、隣の席の鞄の持ち主はトイレに行っているのか見当たらない。盗るなら今しかない。岳はそっと素早く鞄の財布に手を伸ばした。肌触りの良い革の感触を握りしめ、テーブルから身体を起こす。緊張のあまり顔を上げられない。財布をジャケットの内ポケットに入れて席を立ち、そのまま店員の「ありがとうございました」という呑気な声と共にカフェを出た。あまりに呆気なく盗みに成功したことに拍子抜けした。速かった心臓の鼓動も段々落ち着きを取り戻していく。
岳は大通りを逸れて路地に入っところで、盗んだ財布を取り出した。二つ折りになっている財布には身分証とカード、そして現金三万円が入っていた。震える手でお札を取り出し、大切に胸に抱き込んだ。今日愛梨から手に入るはずだった三万円が結果的に岳の手の中にある。愛莉のつまらない話を聞くことも、黒ずんで異臭のする愛梨の穴に奉仕することもなく。盗んだ罪悪感はあったが、財布の持ち主が岳ほど生活に苦しんでいるとは到底思えない。金を持っている奴から少しぐらい盗んだってバチは当たらないはずだ。岳はそう自分に言い聞かせて駅に向かって歩き出した。
岳は駅前の焼肉チェーン店に入った。安価で食べ放題ができると有名な店だ。ここに来る道中、人がいないことを確認してから財布を道端に捨てた。いつまでも盗んだ財布を持ち歩くのは怖かった。
岳はタブレット端末で目に入る肉をどんどん注文していった。昨日から菓子パンとネカフェで飲めるドリンクバーしか腹に入れていなかったので、岳の腹はずっとグーグー鳴っている。すぐにタンとハラミが到着し、すぐに網に乗せた。肉が焼ける音を聞くだけで、口の中に唾液が溢れる。少し赤みが残る肉にたっぷりとタレをつけ、口に運ぼうとした時、岳が座るテーブルの向かい側に見知らぬ男が座った。男の顔は芸能人のように整っていて、清潔感のある小洒落た服を着こなしている。その男は見覚えのある鞄を持っていた。間違いなく岳が財布を盗みだした鞄だった。
岳は口に運びかけていた肉を無理に口に押し込み、逃げるために席を立った。しかし向かいの男に腕を強く引っ張られて、尻餅をつくように席に戻された。その反動で塊のままの肉を飲み込んでしまい、「うぐっ」と汚い音が岳の喉元から鳴る。
「お前、私の財布盗んだだろ」
男は岳の腕を掴んだまま岳に問いかけた。男の声や口調に怒りの色は見えない。しかしその男の落ち着き具合がかえって岳の恐怖を煽った。
「知らねーよ」
平静を装っても岳の声は上擦り、震えていた。これでは自分が犯人だと言っているようなものだと思ったが、今はシラを切るしかない。
「じゃあなんで今逃げようとした?」
「知らねー男が相席してきたからだろ」
シラを切り続ける岳に、男はスマホの画面を見せてきた。画面には周りを警戒しながら財布を道端に投げ捨てる岳の姿がはっきりと映し出されている。言い逃れのできない状況に冷や汗が吹き出した。
「私と取引しないか?」
「取引?」
「そうだ。一ヶ月私のヒモになれ」
岳は一瞬ヒモという単語を理解できなかった。一般的にヒモとは働かないでパートナーに養ってもらうことを指すが、岳がこの男のヒモをやっても男に利益はない。
「お前、ゲイなのか?」
岳は混乱する頭をフル回転させてたどり着いた答えを投げかけた。もし岳が考えているヒモの定義が合っているとしたら、この男が岳を性的な目で見ているに違いない。顔だけが取り柄の岳にとって、女だけではなく男に性的な目を向けられるのは珍しくない。岳はエロ漫画に出てきそうな性奴隷をイメージして恐怖した。好きでもない女とセックスはできても、男とやるのは論外だ。たとえルックスの良い男だったとしてもだ。しかし岳の先走った妄想を掻き消すように男は「違う」と答えた。
「じゃあ、ヒモって何?」
「お前を一ヶ月養ってやるって言ってるんだ」
「あんたには何の得もないじゃないか。そんなん信じられるわけねーだろ」
「信じなくてもいいが、断るなら今すぐ警察行きだ」
警察という言葉に岳はブルっと身震いした。
「本当に、本当にヒモになるだけ?」
向かいの男はただ「ああ」とだけ頷いた。男の表情からは何も感情が読み取れない。絶対にこの男の言葉には裏があると直感したが、警察の厄介になるのも嫌だった。
「どうする? お前の選択肢は二つだけだ。私のヒモになるか、警察に行くか」
「警察は、嫌だ……」
「そうか、じゃあ取引成立ということで」
男の手はあっさりと岳の腕から離れていった。いつの間にかヒモになることになってしまったことに困惑して俯いていた顔を上げると、男は財布を盗まれた被害者とは思えない爽やかな笑顔を浮かべていた。
「肉、焦げるぞ」
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