五月に死ぬ魔女

 ―――魔女は五月に死ぬ。
 ―――だが、五月以外には決して死なない

 そう、『何があろうとも』

 三日月街には魔女がいる。
 それは都市伝説の一つだ。
 彼女達は五月に産まれてくる。そして五月に死ぬのだ。逆を言うのならば五月以外には決して死なない。交通事故に遭おうとも飛び降りようとも首を吊ろうとも病にかかろうとも、その命は続く。だが、五月にはただの人間と同じように死んでしまう。
 それ以外、人と魔女に大きな差はない。
 そう、語られている。
 だが、光川圭の知る魔女はただの人間とは異なった。
 彼女はとびきりの美人で不吉な人物だ。血を好み、悲劇を嗤う。不思議な力を持つのだとも自称している。それが本当か嘘かはわからない。  真偽を知ろうとも圭は思わなかった。そもそも永久子が本当に魔女なのかどうかも確かではない。確かに永久子は常人とは違って見えるものの圭はそう疑っていた。
 ――今までは

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 圭の目の前では、待針永久子が倒れている。
 その胸は肋骨が割り開かれ、中身が覗いている。
 心臓はない。
 だが、永久子は生きていた。
 圭は思い知る。今は四月だ。

 魔女は五月に死ぬ。
 だが、五月以外には決して死なない。

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 彼女――待針永久子と光川圭は、とある事故をきっかけに出会った。
 海沿いの崖に近づきすぎた永久子が、強風に煽られて落ちかけたのを、圭が庇ったのだ。
 その時、永久子は驚いたように――本当に、これ以上なく驚いたように――目を見開いた後、クスクスと笑った。何故、笑うのか。何がおかしいのか。そう眉根を寄せる圭の耳元に、永久子は唇を寄せた。
『私は魔女だもの。今は七月。崖から落ちようと、死ぬことはないのよ?』
「あれが本当だとは、思わなかったよ」
「そうね、普通はそう思うでしょうね」
 長い黒髪を揺らし、永久子は頷いた。その胸からは、夥しい量の血が零れ続けている。だが、傷口は蠢くと徐々に埋まり始めた。
 肉の穴が歪に塞がっていく。
 その様を眺め、圭は尋ねた。

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「心臓は再生できないの?」
「心臓は無理。アレは魔力の核だもの。繋ぐことはできても、作ることはできないわ」
 まるで作れる料理と、作れない料理について、語るような口調だった。
 げんなりしながらも、圭は辺りを見回した。二人は廃ビルの中にいる。
 本日、永久子はここへ呼び出されたのだという。

『魔女様へ』と、その手紙は謡っていた。

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『魔女様へ。私の願いを叶えてください』。
 文章は新聞の切り抜きで作られていた。そんな危ないものに釣られるなよと、圭は思う。だが、永久子は一人で指定された場所へ向かった。午後四時までに帰らなければ迎えに来てと、圭に住所をメッセージで送って。そして、彼女は刺され、殺され、一時気を失っている間に、心臓を奪われた―――らしい。
「何故、俺を巻き込んだの?」
「その方が楽しそうだったから」
 永久子は囁く。圭は眉間の皺を更に深めた。
「楽しそうだったから」
 そう、永久子はくすくすと笑う。同時に、ごぼりと濁った音の咳をして、彼女は血を吐いた。びしゃびしゃと、肉片の混ざった紅色が床の上に広がる。溜息を吐いて、圭は永久子の口元をハンカチで拭いてやった。そのまま濡れた布をべちゃり、と床上に落とす。

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「警察には」
「行けると思う?」
 永久子の言葉に、圭は頷いた。『心臓を盗まれました』などと、訴えようがない。実際に、レントゲン写真でも見せれば別だろうが、その時、人類は大混乱に陥るだろう。そう諦める圭の前で、永久子は謡うように囁いた。

「ねぇ、気づいている――――圭?」

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「何が?」
「今は四月なのよ。四月十八日」
 そうだねと、圭は思う。だから、永久子は生きているのだ。魔女は五月に死ぬ。だが、五月以外には決して死なない。
 心臓を盗まれようとも、彼女はこうして息をしている。
 にぃっと、永久子は笑った。何もかもを楽しむかのような口調で、彼女は囀る。
「わからないかしら。今は四月。四月が終われば五月が来るわ」
「だから?」
「五月になったら、魔女は死ぬのよ」
 あっと、圭は間抜けに口を開けた。そうだった。魔女は五月に死ぬ。
 人間と同じように。
 つまり、永久子は――――。

「五月までに心臓を取り戻せなければ、私は死ぬ」

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 永久子は血で汚れた指を組み合わせた。引き続き、彼女は口元に完璧な微笑みを描く。
 そして、優しく、優しく、永久子は囁いた。
「とても、とても、楽しいことだとは思わない?」
「どこが」
 楽しいのかと、圭は言いかけて止めた。待針永久子は不吉な女性だ。彼女は血を好み、悲劇を楽しむ。
 それが自分に関するものであっても、例外はないのだろう。

 圭は思う。
 永久子の心臓を取り戻さなければならない。
 そうしなければ、五月に魔女は死ぬのだ。

 立ち上がり、圭は今後の方針を告げるべく口を開いた―――――。

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「君にとっては死さえ娯楽なんだな」
「そうね。だって初めての事ってドキドキしない? 今、私の心臓は無いけれど」
 もしかしたら永久子は死を願っているのだろうか、と圭は思った。
 魔女が死ねるのは一年にひと月の間だけ。それを逃せば延々と生き続けるしかない。その間に知っている人はみな消えて行く。
 もしかして永久子は他に「楽しめる」相手がいないのか――

「……賭けをしようか」
 不意に圭が言った。
「5月までに心臓を取り返したら俺の勝ち。取り返せなかった君の勝ち、望み通り死ねばいい。俺の命もやる。でも、俺が勝ったら君には生きてもらう。これから先もずっと死ぬことは許さない」
「あなた自分が何を言っているかわかってるの?」
 永久子の顔からは、それまでの笑みが消えていた。
「知ってる。魔女との契約は絶対、だろ」
「見つからなければ、あなたも死ぬのよ」
「いいよ。命がけのゲームなんて楽しそうだ」

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 ―――命がけのゲームなんて楽しそうだ。
 そう、圭は永久子に告げた。ソレに対して、彼女は。
「馬鹿だと思うの」
 辛辣に、そう言い放った。
 廃ビルから、二人は既に移動をしている。木製の家具を主体とした、落ち着いた風情の喫茶店内にて。紅茶を傾け、彼女は囁いた。
「魔女は五月にしか死なない。けれども、五月には死ぬのよ。決して、一人、永遠を生きるわけじゃないわ……それに、私は死にたいと思っているなんて一言も言っていない」
「ああ、そうだな。でも、俺にはそう見えた」
「ええ、それは実際当たっているんだけれどね」
 さらりと、永久子は言った。圭は息を呑む。一方、永久子は涼やかに続けた。
「……『見えた通り』よ。そう、私は死に惹かれている側面がある。それは否定しない。だからって、あんな賭けを持ち出すなんて貴方は馬鹿よ」

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 永久子は首を横に振る。襟元のリボンが微かに揺れた。今の彼女は普段の黒い服装とは異なる、真っ白なブラウスと紺色のスカートを身に着けている。永久子に金を渡された圭が、破れ、血塗れになっていた服の代わりに買ってきたものだ。色に文句を言いつつも、今では永久子はそれを綺麗に着こなしている。清楚ささえ感じさせる装いで、彼女は続きを囁いた。

「でも、嫌いではないわ」

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「そういう馬鹿は、嫌いじゃない。ええ、いいわ。遊びましょう。貴方と私、命を賭けたゲームを。どのような終わりを迎えても、悔いのないように、ね」
 そう、永久子は笑う。圭は少しだけ安堵した。彼女の興味は、『己が死ぬこと』よりも、完全に今回の騒動の顛末へと移行したらしい。永久子は紅茶を飲む。そして、甘く囁いた。
「私の巻き添えにして、貴方を殺すわけにはいかないわね。いいわ。死ぬのも面白そうだったけれども、積極的に心臓を探すこととしましょう」
「俺が約束をしなかったら、どうなったのか、想像するのも恐ろしいな?」
「別に。私は心臓を探したかもしれないし、探さなかったかもしれないわ。どちらでも恐ろしいことなんて、なにもなくってよ。見つからなければ、私は死ぬ。それだけだもの」

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 永久子は笑う。笑って、笑って、彼女は言う。
「それは、楽しいことだわ」
「俺には楽しくない」
「貴方にはそうでしょうね」
 永久子は微笑む。そうして、どこか寂しそうに告げた。
「貴方は、優しい人だから」
 魔女の私とは違って。そう、彼女は苦笑しながらも、紅茶を最後まで飲み干した。

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「さて、それじゃあ行きましょうか」
「行くって、どこへ?」
 注文した紅茶を片付けると、永久子は立ち上がった。急なことに、圭は瞬きをする。確かに、このまま時間を浪費していても意味はないだろう。だが、残念ながら、探す当ても、圭には特には思いつかなかった。呆れたように、永久子は言う。
「あんなゲームをしかけておいて、心当たりもなかったの?」
「しかたないだろう。アレは咄嗟に出た言葉だったんだ」
「やれやれ、しかたがないわね。まず、私達にはヒントが与えられているわ。最初の手紙を思い出して。犯人は、私が魔女だと知っていた―――都市伝説でしかないはずの魔女が、本当にいることを知っていたのよ」
「あっ」

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 そう、圭は口を開く。考えてみれば、単純な事実だった。圭は魔女の知り合いだ。だが、この三日月街に、魔女の実在を知る人物は多くはない。一つ頷き、永久子は続けた。
「だから、私達はまず魔女の情報網を当たるべきだわ。私の知り合いに会いに行きましょう。この三月街にいる、魔女のことを詳しく知る者に」
 頷き返しながらも、圭は緊張を覚えた。
 それは、どんな人物なのか。
 一体、何者なのか。
 疑問を胸に抱きながらも、圭は永久子の案内で歩き出した―――。

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 骨董屋・・・・・・なのか・・・・・・? 
 疑問形。それが圭の率直な感想だ。
 店内にあるのは年代物の家具や調度品。アクセサリーや小物。本棚を埋める革装丁の古書。
 そして、猫。
 店のそこかしこに猫がいる。
 思い思いの場所で様々な毛色の猫たちがくつろいでいた。
 さらに、夥しい数の人形。
 こちらも猫に負けずあちらこちらに配置されている。
 鏡台に置かれたビスクドールの隣でサビ柄の子猫が毛繕いをし、ロッキングチェアに掛けた等身大の人形の膝では黒猫が居眠りをしていた。
 ここにあるもの全て見るからに高級そうなのだが、猫が傷をつけたり倒したりしたらどうするのだろうか。
 圭が小市民らしい心配をしていると、

「いらっしゃいませ」
 
 落ち着いたトーンだが、どこかほっとさせる柔らかさを含んだその声に、圭は目を瞬かせて辺りを見回した。
 声の主がどこにいるのかわからなかったのだ。

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 柱時計がボーンと鳴る。
 声の主を探して、圭は視線をさまよわせた。一方、永久子は迷うことなく歩き出す。
 彼女は窓際に置かれた揺り籠に近づいた。その中には、陶器製の赤子の人形が寝かせられている。濁ったガラス玉の瞳が、圭達を映した。赤子の隣には、長毛の白い猫が寄り添っている。ゆっくりと、猫は顔をあげた。金の目が、確かに圭達を捉える。
「いらっしゃいませ、魔女様」
 声は、猫の喉から発せられた。

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 圭は目を見開く。一方で、永久子の方に動揺はなかった。彼女は猫に語りかける。
「久しいわね。変わりはなかったかしら?」
「ここは変わることはございませんとも。ええ、人の世がどれだけ惑い、移ろおうとも、ここは変わることなくございます。けれども、貴女様は随分と変わられましたね」
「あら、わかるのかしら?」
「心臓がございません」
 はたと、猫は尻尾を揺らした。途端、部屋中の猫が鳴き声をあげた。なーなーと、あーあーと、声が響く。その音が、まるで圭には泣いているように聞こえた。

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「わかっているのならば話は早いわ。猫の噂は風よりも速く回る。貴方は何か聞いていないかしら?」
「どうでもよいものならば大量に―――目ぼしいものは」
「あるの?」
「あるのか?」
「一つだけ、ございますな」
 伸びをして、猫は身を起こした。赤子の人形の眼球を肉球で踏みつけ、猫は永久子に顔を寄せる。圭には猫が笑ったように思えた。だが、勿論、その顔には変化などない。
 猫とは笑わないものだ。笑った段階で、それは猫ではない。

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「魔女様の心臓に焦がれるものは多い。だが、今回は一つの実験が行われているようです」
「―――実験?」
「五月まで、本当に魔女様は死なないのか。五月に入れば、本当に死ぬのか。試したいものがいると聞いております。その者は、この状況を穴が開くほど見つめている、とも」
「誰なんだそれは。教えてくれ」
 圭は前のめりになった。だが、猫は首を横に振る。その仕草は、やはり猫らしくはないものだ。どこか意地悪な響きを舌にのせて猫は囁く。
「さあ、私は猫ですので、人間の噂などこれ以上は耳にしておりません――それよりも道具を見てはいかれませんか? 百年製の糸車に、指を削り続けてきた肉挽き器。なんでもございますよ?」
「それは今度頂くわ。邪魔したわね」
 重要なところは聞けていない。だが、永久子は身を翻した。迷いなく彼女は歩き始める。圭は慌ててその後を追った。猫はなーと鳴く。鳴き声の合唱の中、圭達は店を去った。

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「さて、弱ったことになったわね。単に悪戯ならば、まだ可愛げもあったのに」
「悪戯で、人の心臓を奪う奴はいないだろ」
 永久子のぼやきに、圭はそう返す。悪戯で心臓を盗られてはたまったものではない。同時に、彼は自分達の後にした店を振り返った。木々の間に埋もれた扉を指差し、圭は言う。
「それより、いいのか。もっと話を聞けたかもしれないのに」
「猫は気紛れで、人のことなど本来どうでもいいものよ。あれ以上は、何も聞けやしないわ。それよりも、これからどうしましょうね?」

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 永久子は囁く。思わず、圭は考え込んだ。誰かが、明確な目的を持って、永久子の心臓を盗った。そして、今でも、その人物はこちらを観察しているという。
そこに、圭は一筋の可能性を見出した。
「こっちを観察しているというのならば、誘い出してやればいい」
「あら、強気ね。どうするのかしら?」
「そいつは、永久子の生き死にを見つめている。ならば、出てこざるをえない状況を作ってやればいいんじゃないか?」

 圭は提案する。その方法とは――――。

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 動きがあったのは、その六日後のことだった。
 圭の提案はいたってシンプルだった。
 永久子は一人暮らしの圭のマンションから一歩も出なかったのだ。
 六日間の間ずっと。
 部屋のカーテンは閉め切られたまま。
 夕方になって、圭が帰ってきてから明かりが点くことだけが唯一の変化。
 箱の中は観測できない。それは即ち実験の失敗を意味する。
 じりじりと観察者は焦れていた。
 周りの視線を気にすることも忘れるほどに。
 だが、箱の中からは───。

「永久子」
「何? この生活にも、いい加減飽きてきたのだけど?」
 食後の緑茶を啜りながら、永久子は心底つまらなそうに言った。
「やっと見つけた。向いのビルの403号室。ここより高い階で、そこだけが空き部屋だった」
 魔女は笑う。
 いつものごとく唇は完璧な弧を描いて。

 人は、暗闇で目を凝らしてしまう。
 そこから逃げる方が先だというのに。

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 シュレディンガーの猫は生きているのか、死んでいるのか。

 箱の中の魔女は生きているのか、死んでいるのか。

 圭が普段通りに動いている時点で、通常ならば生きていると考えるものだろう。だが、男にはそれだけの余裕がなかった。今日も閉じられたカーテンに舌打ちし、ついに、彼は向かいのビルの四〇三号室を抜け出した。宅配員の通過に合わせ、マンションのセキュリティを突破し、永久子の部屋へ向かう。物理的な鍵を開く手段を、男は持ち合わせていた。だが、扉に鍵はかけられていなかった。
 男は部屋を開く。そして、絶句した。

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 寝台の上には大量の白い百合が散らされている。その真ん中に、胸の開いた、世にも美しい娘が横たわっていた。滴る血が、百合を紅く濡らしている。生きているとは思えなかった。男はゆらりと揺れ、慌てて娘に駆け寄った。彼は傷の前で組み合わされている手を取る。
 その瞬間だった。
「シュレディンガーに伝えてもらえるかしら? 猫は生きているのか死んでいるのかわからない。でも魔女は五月以外には決して死なないって」
 胸に穴を開けたまま、艶やかな声がそう囁いた。
 瞬間、男は背後からスタンガンを押しつけられた。

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「上手くいったな」
「ええ、そのようね」
 圭の問いに、永久子は答えた。男の上に、彼女は屈みこむ。本日、圭は外出を控え、逆に四〇三号室を観察していたのだ。部屋から男が出てくるのを見ると、圭は隠れ、永久子の無残な姿に動揺した男にスタンガンを押し当てた。それにしてもと、圭は眉根を寄せる。
「そうやって、胸をもう一度開く必要なんてなかっただろ?」
「あら、これがあったから、あれだけ彼は隙を見せたのだと思うのだけれども?」
 涼し気に、永久子は応える。その胸は大きく開いていた。永久子自身が包丁で切り開いたものだ。そのため、傷口は美しくはなく、肉がぐちゃぐちゃになっている。それでも、永久子はけろりとしていた。頭痛を覚え、圭は額を押さえる。その時だ。

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「うっ……あっ……」
「おっ? ちっ、スタンガン一発じゃ弱かったか」
 男が起き上がった。圭は永久子を下がらせる。何度も、何度も彼は頭を振った。その体に圭が再びスタンガンを押しつけようとした時だった。男は叫ぶと獣のように走りだした。
「うわああああああああああああああああっ!」
「なっ!」
 鋭い音と共に、窓ガラスが突き破られる。男の体が宙に浮いた。自殺かと、圭は窓辺に駆け寄る。だが、男の体は真下にいたトラックの、うず高く布団が積まれた荷台に着地した。そのまま、トラックは赤信号を無視して走りだす。圭は永久子に視線を向けた。
「あれは………」
「ええ、そうね」
 なんでもないことのように、永久子は答えた。
「男には共犯者がいるわ」

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 後には、砕けた窓ガラスと少量の血が残されている。二つ共が、太陽の光に輝いていた。チッと、圭は舌打ちする。
「四月の内、六日も使ってこの結果か。すまない、永久子」
「謝らないで。一つ、面白いことがわかったから」
「面白いこと?」
 憔悴する圭の前に、永久子はあるものを取り出した。圭は眉根を寄せる。それは木の枝と紐や宝石を複雑に編み込んだものだった。香が焚きしめられているのか、微かに甘い匂いもする。不思議な代物を手に、永久子は微笑んだ。
「彼が気絶している間に、ポケットから奪ったの」
「これは一体?」
「魔女の護符よ」
 思わず、圭は目を見開いた。男が魔女の護符を持っていた。
 それは何を意味するのか。

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「もしかして、共犯者は……」
「わからないわ。男が単に、魔女から護符を買ったのかもしれない。ただ、それにしてはこの護符は手が込んでいる。流通しているものではないでしょうね。それなら、男と魔女が繋がっていることは確かよ」
 永久子はそう言った。圭は唇を噛み締める。元々、犯人は永久子が魔女だと知っていた。都市伝説でしかないはずの魔女が、本当にいることを把握していたのだ。そのため、圭達は魔女をよく知る、猫に会いに行った。だが、猫から魔女の名前は特に出てこなかった。
 猫の噂は風より早く届く。だが、関係している魔女の名前はまだ表に出ていない。
 もしかして、圭達は何か恐ろしいものを相手にしているのかもしれなかった。
「六日が経ったわ。時間がない。次はどうするの?」
 圭は魔女の護符を握り締める。手掛かりは得た。
 次はどう動くのか。それを告げるため、圭は口を開いた―――――。

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「……考えたことがあるんだ。全くの見当外れかも知れないから、君の意見を聞かせて欲しい」
「なにかしら」
「犯人は、なんだってそんな実験をしたいんだ?」
 永久子は小首を傾げる。
 五月まで、本当に魔女は死なないのか。五月に入れば、本当に死ぬのか。
 今回のことで、相手がどうやら魔女と、その関係者らしいことはわかった。
 だが、それならば尚更だ。
 魔女であれば、その理は自明のことではないのか。
 なのに、何故。
「相手が、君をどのくらい理解しているのかはわからない。だけどもし、君の特殊な性癖を知らなければ」
「人聞きが悪いのだけれど」
「知らなければ、当然君が、生きるための行動を起こすと思うだろう」
 それは、第一に心臓を取り戻すこと。
 そして、もしそれが叶わないとしたなら。
 その時は、どうするのか。

「五月に死ぬ魔女が、五月を生き延びる方法。本当に知りたいのは、それなんじゃないか」

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「五月に死ぬ魔女が、五月を生き延びる方法……」
 それだけ言うと永久子は沈黙した。彼女は何かを考え始める。長く静寂は続いた。対応に困って圭は口を開く。
「いや、もしかして外れかもしれないけど」
「いいえ、違うわ。多分それで合っている」
 永久子は断言した。長い黒髪を指先に巻きつけ、彼女は言葉を綴る。
「猫の噂は風よりも速く回る。それでも猫は魔女のことについて何も言わなかった。私は彼に『貴方は何か聞いていないかしら?』と尋ねたわ。猫は最近耳に届いた噂話を語った。私は聞き方を間違えたのよ」
「どういうこと?」
「これで何故私の心臓が奪われたのかにも説明がつくわ。相手がこちらを見張っているのかにもね……恐らく事が起こったのはもっとずっと前」
 永久子は緊張に溢れた口調で続ける。彼女の胸元から血が垂れた。ぽつり、紅色が床を濡らす。そして永久子はその推測を吐いた。

「その魔女は心臓をなくしたのよ」

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「魔女が、心臓をなくした?」
「ええ、当初、彼女は気にしなかった。何故ならば、魔女は五月が来るまでは死なないから。あるいは、私と同じ考え方で、死んでもいいと思っていたのかもしれない。魔女は騒がず、猫の耳に噂は届いたけれども、直ぐに話は風化した。けれども、五月が近づくうちに、そうも言っていられなくなった。彼女には護符を渡すような相手がいたから」
「その人物が、魔女の死を望まなかったのか」
「ええ、そして、生き延びるためには、核となる新しい心臓がいるわ。魔女は男と共謀して私の心臓を奪い、自分の体に埋め込んだのでしょうね。でも、魔女とはいえ、心臓が体に馴染むか否かは魔力の相性次第よ。五月を越えられるとは限らない。それで、彼女達は心臓を失った私が、どう五月を生き延びようとするのかを見張ることにしたの」

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「なるほど……それで」
「ええ。私の心臓を奪ったのは魔女だった。こう考えれば、相手が何故魔女を知っていたのかも、心臓を必要としたのかも、私達を見張っているのかも説明がつく」
 永久子の言葉に、圭は頷いた。説明されれば、それはもっともな話に思えた。
 だが、と圭は口を開く。
「それじゃあ、俺達が心臓を取り返したら―――」
「ええ、気づいたかしら? この推測が正解ならばある結末が待っている」
 永久子は口を開いた。すうっと、彼女は息を吸い込む。胸の傷が蠢いた。
 そうして、彼女は紅い血と共に囁く。

「心臓を失った、相手の魔女は死ぬわ」

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「……俺達が心臓を取り返せば、一人が死ぬ」
 呆然と、圭は呟いた。それは予想もしなかった事態だ。ただ、彼は永久子を生かすためだけに必死だった。その結果、人が死ぬとは考えてもみない。圭の迷いを射抜くように、永久子は続けた。
「どうするの、圭。恐らく、猫の下を再度訪れ、尋ね直せば、心臓を失った魔女の名前は知れる。あるいは、私の知る魔女、全てを調べていってもいいわ。けれども、本当にそれでいいの?」
「それでいいって……何が」
「元々、私は自分が死ぬことも愉快と思っていた。今では、貴方と契約を結んでしまったから、そんなに呑気には語れないけれどもね。私はね、圭」
 そこで、永久子は微笑んだ。
 美しく美しく、彼女は笑う。

「貴方とならば、死んでもいいと思っているわ」

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 ある意味、告白のような言葉だった。そうして、永久子は楽しそうに続けるのだ。
「さあ、どうするの、圭。魔女を追うのか、追わないのか。心臓を取り戻して相手を殺すのか、心臓を取り返さずに一緒に死ぬのか。好きな方を選んでちょうだい」
 そう、永久子は甘く囁く。
 どちらにしろ、残酷な問いかけだ。
 それに応えるべく、圭は口を開いた――――。

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「猫に話を聞こう。魔女を見つけ出す」
「相手の魔女を殺す……それでいいのね」
永久子は、ため息を漏らした。
圭の提案はもっともだ。
自分の命を張ったのにむざむざ殺されてしまう理由はなく、死ぬにしても二人より一人のほうがいい。
だけれども、この心臓のない胸がぐずりと熔けるような感覚。
これは、一緒に死ぬと言ってくれなかった彼への失望だろうか。

「違う」
圭はきっぱりと言い放った。
「……何が違うの?」
「誰一人死なない方法を探す。それが俺の答えだ」
──三文小説か。
永久子は、現実を受け入れる覚悟のない彼をキッと睨んだ。
「……そんな第三の選択肢はないわ。第一、人間のあなたに何ができるというの?」
「だとしてもだ。これは、俺と君の『命がけのゲーム』だからな。全力を尽くすさ」
心臓に手を当て、圭は宣誓する。
彼の瞳に映っていたのは、残酷を楽しむように囁く彼女の、今にも泣き出しそうな顔だった。

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 柱時計の音が鳴る。
 圭達は、猫の骨董屋を再訪していた。猫達の大合唱に、二人は迎え入れられる。横目で、圭は永久子を見た。先程見た、泣きそうな顔が嘘のように、永久子は涼しげな表情を浮かべている。その横顔に向けて、圭は尋ねた。
「なあ、永久子……さっきの、お前の顔だけれども」
「黙って」
 にべもなく言い、永久子は歩き出す。彼女は揺り籠へ近寄った。そこには相変わらず、陶器製の赤子と共に、長毛の白猫が横たわっていた。永久子は猫に声をかける。
「私の聞き方が悪かったわ。他に、心臓を失った魔女がいるでしょう? 教えて頂戴」
「心臓がひとつ。失った魔女は二人。つまり、殺し合いを始められるのですかな?」
「違うわ。この隣の馬鹿は、その人さえも救ってみせるそうよ。どうやるかは、私にはさっぱりわからないけれどもね」

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 永久子は肩を竦める。猫は目を細めた。計るように、彼は圭の方を見る。その視線から逃れることなく、圭は表情を引き締めた。猫は嗤う。嗤う猫など猫ではないのに、確かに嗤った。溜息を吐くように、猫は囁いた。
「愚かなことです。本当に愚かな。または若い。本当に若い。私はそういう無謀は」
「無謀は?」
「大嫌いですが、大好きですな。人間とは、そう言う者の方が面白い」
 なぁごと猫は鳴いた。長毛の尻尾をひと振りし、猫は圭の顔を撫でる。
「覚悟があるのならば、教えてしんぜましょう」
 そう、猫は囁いた。

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「心臓を失った魔女の名は百合香。彼女は心臓を喰われました」
「……喰われた。どういうこと?」
「魔女を崇拝する者に奪われ、喰われてしまったのです。消化された肉は取り返せませぬ。彼女は五月を待って死ぬつもりでした。しかし、百合香と仲のいい男がいた。彼は彼女のために待針永久子の心臓を取ってきた。その上で貴女様の監視に移った。そういうことだったそうです」
「……前に私が尋ねた時はそこまでの詳細は言わなかったわね?」
「後半は遂先程新しく入ってきた情報ですとも。猫の噂は風よりも速く回る。常に更新されているのですよ」
「それで貴方は圭に『覚悟があるのなら』と言ったわ。何を教えてくれるのかしら?」
『この街の秘密についてだよ、嬢ちゃん』
 不意にしわがれた声が響いた。永久子と圭は目を見開く。陶器製の赤子が喋っていた。今までそれを踏んでいた猫が人形に向けて頭を下げる。にぃっと笑い、赤子は言葉を続けた。

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 罅割れた口を動かしてソレは硬い声を出した。
『三日月町に魔女が生まれる。そこには秘密がある。ソレさえわかれば心臓の代わりも見つかるかもしれない。そのためには心臓を喰った男のところに行く必要がある。奴は魔女狂いだ。何かを突き留めている可能性がある。だが、気をつけろ。魔女と見れば奴は心臓を喰いにかかる。百合香と男も再び接触しようとして全身を喰われかけて止めたんだ。アンタ達が奴に抵抗できるかどうかはわからない』
「人間とは思えない相手ね」
『ソイツは魔力を集めすぎたんだ。どうする会いに行くのか?』
「まだわからないわ」
 永久子は答えた。足音を立てて彼女は店から出ていく。圭は後に続いた。少しだけ振り返って永久子は言う。
「貴重な情報をありがとう。私達が生き残れたのなら、お礼はするわ」
『それはいい。ただ土産話を聞かせてくれ』
 低く笑って人形は続けた。
『こんな体じゃ楽しみも何もないもんでな』

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「さて、どうしましょうね、圭。私達には二種類の選択肢があるわ」
 指を立て、永久子はそう語った。圭は頷く。
 手に入った情報は二つ。心臓を喰われた魔女の名前。そして、もしかして、心臓の代わりとなるものの情報を持っているかもしれない、危険な男の存在。
「私達は先にどちらに会うべきなのかしら。百合香に会って、男の情報と彼女の現状を聞くべきかしら。それとも、男のところに直に行って、早速対決といくべきなのかしら」
「だが、男の場所はわかるのか?」
「あの口ぶりならば、人形は知っているわ。さあ、どうしましょう。これは、言うならば、そうね。『猪突猛進』か『急がば回れ』か」
「ちょっと違う気もするけれどな……どっちがいいんだろうな」

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 腕を組み、圭は考え込む。
 百合香は、永久子の心臓を奪ったうえで、体に埋め込んでいる。その知人の男は、永久子を監視していた。二人が行けば、彼女達は心臓を奪い返されると思うことだろう。
 男は少ない情報で当たるには危険な相手だ。だが、上手くすれば心臓の代替え品を手に入れることができる。そうすれば、百合香にも憂いなく会うことができるだろう。
 一体、どちらがいいのか。
 迷った末、圭は口を開いた――――。

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「魔女の方に会いに行こう」
 圭の言葉に、永久子は面白くなさそうに顔をしかめる。
「ま、男の方に当たるよりは安全策かしらね。上手くいけば件の男について何か情報を得られるかもしれないし」
「その割にはあまり乗り気じゃなさそうだな」
「まあ、ね。あんまり他の魔女に会うのは好きじゃないのよ」
 言いながら永久子は足を早める。圭もそれに合わせるように歩幅を広げながら彼女に問いかける。
「その百合香って魔女を知っているのか?」
「一応面識はあるわね。あまり親しいとは言えないけれど」
 言葉少なに彼女はそう答える。あまり訊いて欲しくはないのだろう。
「―――どこに向かっているんだ?」
「百合香の店よ。開いているといいのだけど」
 永久子の様子はどこか不自然だった。表情が硬く、半ば強制されているかのように足がはやい。
 圭は不安を感じながらも彼女の後について行った。

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 アンティーク調の花屋の玄関扉には、『CLOSE』の札が下げられている。
 それを見て、永久子は頷いた。
「まあ、それはそうよね。この状況で店を開いていたら、それこそ間抜けだわ」
「だが、どうするんだ? 彼女の住処はわかるのか?」
「わからない。店の客も誰も知らないでしょうね」
「だったら」
「でも、大丈夫だと思うわ。百合香には一つ『お役目』があった。彼女が今もそれを続けているのならば、出会うことはできると思う」
 そう言い、永久子は花屋の裏から続く丘に足を運んだ。今は四月だ。丘には緑が萌えている。その先には、一本の木があった。それに少しずつ近づくに連れて、圭はぎょっとした。木の上には、大量の白い鳥がいる。鳩かと思えば、鴉だ。アルビノの鴉達がじっと、圭達のことを見つめていた。

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「百合香の一族は昔、鴉に恩があってね。アルビノの鴉は自力で生き残るのが難しい。その縁で、彼らの世話をすることになっているの。現状でも、彼女がそれを休むことなく続けているのであれば……そろそろ、姿を見せるはずよ」
 やがて、誰かが丘を登って来た。一人の男だ。鴉達の餌なのだろう、彼は銀の皿の上に大量の生肉を乗せて運んでいる。その顔を見て、圭は思わずあっと口を開けた。マンションで遭遇したあの男だ。圭が何かを言う前に、永久子がその前に飛び出した。
「こんにちは、百合香のお知り合いさん」
 柔らかく、柔らかく、永久子は尋ねる。

「私の心臓は、彼女の体に合ったかしら?」

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 男は皿を取り落とした。生肉が地に散らばる。アルビノの鴉達が、一斉に不満の声をあげた。カァカァと声の鳴り響く中、男は懐からナイフを抜く。警戒されているどころの話ではない。圭は永久子の前に出ようとした。だが、それよりも先に、永久子が言った。
「安心して。私は百合香から心臓を奪い返す気はないわ……もしも、彼女の体に適応していないのだったら、貰ってあげてもいいけれども」
「……それは本当か?」
「ええ、何せ、今、私をかばおうとしたその馬鹿な子は、私だけじゃなく、貴方達のことも救う気でいるんだもの」
 永久子は肩を竦めた。男は目を見開く。何度も、彼は首を横に振った。信じられないといった口調で、男は言う。
「本気なのか? 俺はアンタの心臓を奪ったんだぞ。それなのに」
「私の方に怨みはないわ。そして、私の生存を望む人も、今更それを責める気はない。それで、どうなの? 百合香に心臓は適応した?」

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 小首を傾げ、永久子は尋ねる。それに、男は唇を苦々しそうに歪めて応えた。
「一応、動いてはいる。だが、弱々しい。本当に適応しているのかどうかは、五月が来るまでわからんさ。だが、五月になって百合香が死んでしまった後では、他に何もしなかったことを悔いても悔やみきれん。心臓がなくても五月を越える方法があるものならば……そう願って、俺は今までアンタ達の観察をしてきたんだ。だが、逆に突き止められるとは思わなかった」
「猫に尋ねる。まじないを行う。魔女には色々な方法があるわ。ああして、姿を見せた以上、貴方達が見つかるのは時間の問題だった。ただ、一つ聞きたいんだけれども、貴方が逃げた時、トラックを運転していたのは、誰だったのかしら?」
「あれは百合香だ。俺が頼み込んで、協力してもらった」
「彼女、大型免許なんて持っていたの?」
 そこで実に愉快そうに、永久子はケラケラと笑った。

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「さて、百合香は心臓を喰われたと聞いたわ。その時のことを教えてもらえる?」
 緑の丘に座って、永久子は尋ねる。それに、男は頷いた。アルビノの鴉達は、皿に盛り直された肉をついばんでいる。強張った口調で、男は語り始めた。
「アンタの時と同じだ。俺がやった方法は、やられた方法の真似だからな。『魔女様へ。私の願いを叶えてください』。そう新聞の切り抜きで作られた文章と、時刻と場所の指定が書かれた手紙が、花屋に放り込まれた。百合香は悩みを持つ相手に、まじないの販売も行っていたからな。俺が持っていた髪を織り込んだ呪具、あっただろう。アレは護身の品だ。ああいうものを、人々にこっそり渡してやっていた。だから、今回も誰かの相談だろうと、出かけてしまったんだ……そして、ソイツに出会った」

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「出会った? こっそり奪われたのではなく」
「ああ、相手は堂々と姿を晒したよ。そして、百合香の心臓を奪い、彼女の目の前でそれを喰ってみせた……全身を喰われなかったのは行幸だった。後で、俺達はソイツのところに向かったんだが、返り討ちにされ、今度こそ百合香の全身が狙われているのがわかったから、逃げたんだよ」
「ソイツは誰なの?」
「ソイツの名前は、真加部俊郎」
 聞いたことのない名前だ。圭は僅かに眉根を寄せる。名前だけを聞けば、普通の人間のようにも思える。だが、男は首を横に振って続けた。

「男でありながら、魔女になることを望む。魔女喰いだよ」

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「真加部俊郎については、俺が紙にまとめてある。取ってくるからよければ……いや、アンタ達に本当に心臓を奪い返す気がないのなら、百合香に会っていってやってくれ。彼女、アンタの心臓を奪ってしまったことについて、ひどい罪悪感を抱いているんだ」
「まあ、元々は死ぬ気でいたのなら、そうでしょうね」
 永久子は頷いた。そうだろうなと、圭は思う。自分が生き残るために人の心臓を盗む。それは、どうしたって残酷な行為だ。元々、自分の生存を望んでくれる人さえいなければ、死ぬつもりだったというのならば、猶更だろう。圭と永久子は立ち上がった。黒髪を押さえて、永久子は尋ねる。

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「それで、百合香はどこにいるのかしら?」
「花屋の中だ。閉店中の札は下げているが、彼女は植物の間にいるのが落ち着くらしい。この時間ならば眠っているよ」
「あらあら、灯台下暗しとはこのことね」
 永久子はころころと笑った。あの花屋の中に、百合香はいたのだ。その胸では、永久子の心臓が蠢いている。圭は複雑な気持ちになった。会いにいったら、百合香はどうするのだろう。泣くのだろうか。謝るのだろうか。それとも、今更何も言うことはないと、冷たく振舞うのだろうか。考えながら、圭は永久子と共に歩き出した―――。

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「百合香、起きてるかい?」
「おかえりなさい、起きてるわよ。鴉たちは元気だったかしー――」
 男と一緒に花屋に戻った三人を出迎えたのは、血色のすこぶる悪い女性だった。先ほどまで寝ていたのだろう。淡い色の寝間着を着て、まだ少し眠そうな表情をしている。
 魔女の見た目は当てにならないというが、少なくとも見た目は永久子よりも一回り年上に見える。案内してくれた男よりも少し上といったところか。
「久しぶりね、百合香。随分と痩せたんじゃないかしら?」
「永久子………」
 男の後ろから現れたもう一人の魔女を見ると、彼女の顔からさらに血の気が引いた。
「私の心臓、上手く動いてないみたいね。私とあなたじゃ相性悪くてもしょうがないでしょうけど」
「………やっぱり心臓を取り返しに来たのね」
「それだけ相性悪いと無いほうがマシだったんじゃない? あなた、今起きたみたいだけど一日どれくらい起きてられるの?」

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「……五時間よ。日によってはもっと短いわ」
「あらあら。魔女は五月以外には決して死なない。合わない心臓を無理に入れなければ、そんな風にもならなかったでしょうに。でも、五月になればどうでしょうね? その心臓が、貴方を生かす可能性は少なかったとしてもあるのかしら」
「五月になれば、って……私から、心臓を奪い返しに来たのではないの?」
「それはしないわ。こちらの馬鹿が、貴方も私も生かす方法を探したいんですって」
「どうも、こちらの馬鹿です」
 そう言って、圭は頭を下げた。百合香はパチパチと瞬きをする。どうやら、圭の決意が本気だとわかったらしい。くすりと、彼女は笑った。青白い顔で胸を押さえて、百合香は囁く。

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「貴方には全くもって似合わない子ね、永久子。でも、最もふさわしい子かも知れない」
「さあね。どうでもいいことよ」
 澄まして、永久子は言う。その間にも、男は棚を漁っていた。彼はファイリングされた紙の束を取り出し、永久子に手渡す。
「真加部俊郎の資料だ。奴は魔女に誰よりも詳しい……だが、奴のところに行ったところで、五月に死ぬ魔女が五月を越える方法がわかるかは不明だ。それでも、行くのか?」
「行くわ。どちらにしろ、『魔女喰い』を放ってはおけないもの。そうでしょう、圭?」
「ああ、その通りだ」
 圭は頷いた。永久子は歌うように続ける。
「ちゃんと、貴方達の仇を取ってきてあげるから」

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【真加部俊郎】
『彼の魔女狂いは、小学校の修学旅行でバス事故に遭い、彼と一人の少女を除いて全員が死亡した経験から始まっている。窓から偶然放り出され、生き残った真加部と違い、潰された車両の中にいながら生存した少女は魔女だった。真加部俊郎はその事実を突き止め、三日月街の都市伝説でしかない魔女の唯一の研究者となる。だが、徐々に真加部俊郎は正気を失っていく。これまで、百合香を除いて、少なくとも三人が彼に喰われているが、魔女は戸籍を持たない者も多く、その罪が取り沙汰されることはなかった。真加部俊郎は魔力を集め、魔女に似た力を得た。だが、彼は魔女にはなれない。五月以外にも、真加部俊郎は死ぬ。彼は誰よりもそれを恐れている。真加部俊郎は魔女になりたいのだ。だが、その望みは、何名の魔女を喰おうと叶うことはない。このままでは奴は――』

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「『全ての魔女を喰うまで止まらなくなるだろう』、か」
「資料としては、私的な意見が多分に含まれている文章ね」
「ああ、だが、十分だ。俺達の目標が確定した。真加部俊郎に魔女のことを聞く。そして、彼を止める。そのためにも、行かなくてはならない」
 圭は答える。その間にも、永久子はワゴン車を走らせていた。まだ新しいソレは、男に借りたものだ。トラック以外にも所有しており、普段はこれを使っているのだという。永久子は見事なハンドル捌きを見せていた。だが、ふと不安を覚え、圭は尋ねる。
「おい、永久子。お前って、免許持ってたっけ?」
「持っているわけないじゃない」
 当然のごとく応えながら、永久子はアクセルを踏み込む。
 急加速する車体の中で、圭は悲鳴を飲み込んだ。

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『真加部俊郎は、彼の祖父の所有している廃病院をねぐらとしている。住所は以下に記す』
 そう書かれた資料の通りに、永久子は車を走らせた。三日月街の端へ端へと、圭達は向かっていく。やがて、人気の絶えた草原にぽつんと立つ廃病院が見えた。かつて大規模な火事の起こった経緯から、一帯の建物は撤去されたのだという。だが、真加部の祖父は何を思ってか、廃病院は頑なにその場に残したらしい。そのせいで、目の前には物語の中のような異様な光景が繰り広げられていた。月を背後に、廃病院は不気味な姿を見せている。
 さて、どこに車を止めるべきかと、圭が考えた時だった。
 そのまま、永久子は更にアクセルを踏み込んだ。

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「お、おい、ちょっと待ってくれ、永久子」
「せっかくよ。派手にいきましょう」
 涼し気に、永久子は言う。そのまま、彼女はワゴン車を廃病院へと突っませた。
 ガッシャアアアアンッと、ガラスの割れる音が響く。入り口の今はもう動かない自動ドアが割れたのだ。がっくんと、車は一度前傾して止まった。溜息を吐いて、圭は車を降りる。永久子も後に続いた。そこで、二人は瞬きをした。
「どうやら、俺達の訪れは予想されていたらしいぞ」
「ええ、そうね」
 壁にはWELCOMEと、赤い血文字で書かれていた。
 さてと、圭は思う。
 真加部俊郎は何階にいるのか。
 まず、どこを探索するべきか問うべく、圭は永久子に向けて口を開いた―――。

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「まずは…」
 圭の言葉よりも早く、美しいテノールが宙から響いた
「もしや、魔女の永久子様ですか?事前にご連絡いただければおもてなししましたのに」
 圭が顔を上げると、どうやらここは吹き抜けらしい。上階の廊下の手摺りに腕を置いた細身の男の姿がうかがえる。月明かりが影になり、彼の顔はここから見えない
「あなたが真加部俊郎?」
「如何にも」
 恭しく礼をした彼の姿に、圭と永久子は顔を見合せた
「此方へいらしてください。永久子様の場所もあるのですよ?」
 そう言うと彼は何かを下へと落とす。ヒラヒラと舞い降りてきたのは紙。
「そちらにランタンがあるでしょう?」
 振り返ると、暗闇の中で橙色がぼうっと光っている。圭はそれを手に取り、中を覗いた瞬間吐きそうになった
 中身は臓器。おそらく魔女のものだろう
「脾臓かしら」
「永久子、それはどうでもいい!」
 紙を照らすと、切り取られた新聞紙が貼られていた

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『魔女様へ。私の願いを叶えてください』
 新聞の切り抜きは、そう文章を形作っていた。
 圭は思う。ここから全ては始まったのだ。まず、百合香が呼び出され、心臓を喰われた。そして、彼女は生きるために永久子の心臓を奪ったのだ。
 魔女の心臓を巡る物語は、ここから始まった。
 ならば、男の――真加部俊郎の望みはなんだというのか。
「貴方の望みは何なのかしら?」
「それは簡単なことです。私は魔女になりたいのですよ」
 吹き抜けを一周し、真加部俊郎は階段からゆっくりと降りてきた。魔女をいくら食っても魔女にはなれない。この男は狂っている。そう判断し、圭はまともに話をすることを諦めた。だが、彼には聞かなくてはならないことがある。改めて、圭は口を開いた。

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「アンタは魔女に、誰よりも詳しいと聞いている。心臓を奪われた魔女が、五月を越える方法を、アンタは知っているのか?」
「残念ながら、その方法はまだ見つかってはおりません。ですが、永久子様が五月を越えることはできなくはないでしょう」
 真加部俊郎は矛盾したことを言った。どういうことかと、圭は目を細める。その前で、彼は自身の胸にぎゅっと掌を押し当てた。
「私の心臓は魔女の心臓です。これもまた、無理やり奪わせていただいたものですがね。魔女を喰って体に魔力を貯め、耐性をつけた状態で、魔女の心臓を移植したのです」
「だから?」
「つまり、ここにはもう一つ魔女の心臓がある」
 真加部俊郎の言葉に、圭はハッとした。魔女の心臓は、魔女同士ならば簡単に移し替えが可能だ。つまりは――――。

「そう、私の心臓を奪えば、全てが解決するのですよ」
 真加部俊郎は愉快そうに、本当に愉快そうに笑った。

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 真加部俊郎の心臓を奪えば、全てが解決する。
 相手は百合香の心臓を喰った男だ。他にも多数の魔女が犠牲になっている。
 全ての始まりにして、最悪の邪悪だ。だが、彼を殺してもいいものなのか。
(———それ以前に、魔女ですら敵わない男を殺せるのか?) 
 圭がそう悩んだ時だった。永久子は涼しげな声を出した。
「そんなことはどうでもいいわ」
「そんなこと? 貴女様が生き残るための方法ですよ?」
「ええ、それよりも私は別のことを聞きたい。『どうして、貴方は魔女になりたいの』?」

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 恐らく、それは今まで誰も真加部俊郎に聞いてこなかった問いだった。彼は魔女狂いだ。魔女に憧れ、魔女に狂った。そこで、誰もが思考を停止させた。問われて、真加部俊郎も意外そうな顔をしている。十数秒後、彼はぽつりと答えを漏らした。
「ひとりにさせたくなかったから」
 それはあまりに意外で、理解ができない言葉だった。魔女を殺し、喰ってきた。一人は心臓を奪い、己の中に埋め込んだ。その理由が―――、
(ひとりにさせたくなかったから?)
 まるで子供のように、真加部俊郎は言う。

「小百合ちゃんを、ひとりにさせたくないんだ」

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(小百合ちゃんとは誰だ?)
 そこで、圭は思い出した。渡された資料に記されていた内容だ。
『『彼の魔女狂いは、小学校の修学旅行でバス事故に遭い、彼と一人の少女を除いて全員が死亡した経験から始まっている。窓から偶然放り出され、生き残った真加部と違い、潰された車両の中にいながら生存した少女は魔女だった。真加部俊郎はその事実を突き止め、三日月街の都市伝説でしかない魔女の唯一の研究者となる。』
「小百合ちゃんだけが学校の中で僕をいじめなかった。気持ち悪いとも、ゴミとも、死ねとも言わなかった。小百合ちゃんは僕の天使だった。そして、小百合ちゃんはあの事故を僕と共に生き残ったんだ。これで、小百合ちゃんとずっと一緒にいられる。そう思った。でも、収容された病院から、小百合ちゃんは姿を消してしまった。調べ続けてわかったんだ。彼女は魔女だった。だから、それをバレないようにするために姿を隠したんだって」

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 憑かれたように、真加部俊郎は語っていく。その声の中には、深い悲しみが秘められていた。ひとりの男の狂った、単純で切実な理由を、圭達は知っていく。
「小百合ちゃんは魔女だ。それなのに、この三月街で彼女の名前は聞かない。だから、彼女はまだひとりで姿を隠しているはずなんだ。だから、僕が見つけてあげなくてはならない。それなのに、僕は五月以外にも死んでしまう。彼女をひとりにしないためには、死なない体が必要だった。だから、僕は魔女にならなくてはいけないんだ」
 真加部俊郎の一人称が変わっている。『私』から『僕』へと。恐らく、今の彼は素の状態だった。そうして、真加部俊郎は語りを終えた。静かに、彼は首を横へ振る。なるほどと、圭は思った。

 心臓を巡る、全ての狂気の発端は、
 単なる恋心から始まっていたのだ。

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 真加部俊郎は子供のような表情をしている。だが、不意に、彼は顔を歪めた。真加部俊郎は望みを聞かれる前の調子を取り戻す。そして、彼は歌うように語り始めた。
「さてさて、永久子様。私とゲームをしませんか? 私が勝てば貴女様の肉体全てをいただきます。貴女様の体を保管する場所も、既に用意してございます。代わりに、貴女様が勝てば私の心臓を差し上げましょう。さあ―――」
「その前に言わなくてはならないことがあるわ。圭にも今まで黙ってきたことだけれどね。貴方の目標がそんなことで、気持ちがそうでなければ、ずっと伏せておくつもりだった」
 永久子が口を開いた。彼女は黒髪をさらりと後ろへ払う。その目の中に、圭は複雑な感情が宿っているのを見た。珍しい――本当に珍しい、どこか悲しそうな表情と共に、永久子は囁いた。

「変わったわね、としくん」
「―――――――――えっ」

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 真加部俊郎の顔に罅が入る。少なくとも、圭にはそう見えた。永久子は小さく肩を竦めた。
 それから、首を横に振る。悲しそうに、哀れみさえ込めた口調で、彼女は語り始めた。
「あんな事故があったのだもの。注目を避けるため、私は小百合から永久子になった。名前を変えたって、なんてことはない。私は魔女としてそれなりに生きてきたわ。でも……あの大人しくて、優しかったとしくんが、こんな風になっているなんて思わなかった」

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「小百合ちゃん……まさか、そんな……さっちゃん?」
「もしかして貴方がそうして私を想い続けてくれたこと……それがどんなに狂った想いでも、昔だったら嬉しく感じられたかもしれない。魔女はどうしようもなく一人だから」
 でも、今は。
 そう、永久子は言った。彼女は圭の方を見る。真加部俊郎は目を見開いた。だが、くしゃりと一度、顔を歪めて、彼は子供のように笑って言った。
「ひとりじゃないんだね?」
「ええ、そうよ」
 永久子は頷く。真加部俊郎はその場に崩れ落ちた。

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 圭は見た。彼の足元に大きなガラス片があるのを。真加部俊郎はそれを掴んだ。危ないと、圭は声をあげかける。だが、真加部俊郎は永久子に害をなそうとはしなかった。
「僕は……僕はさっちゃんのために、魔女の心臓を喰ってきた。それなのに、それが……それが、さっちゃんを……このままでは、五月に……」
「やめろ!」
「五月に、魔女は死んでしまうから」
 圭は叫ぶ。だが、彼は止まらなかった。無茶苦茶に、真加部俊郎は自分の体を切り裂いた。喉元の血管が裂け、大量の血が溢れ出す。永久子が目を見開いた。圭は彼に駆け寄る。慌てて、圭は真加部俊郎の傷口を押さえた。だが、血は止まらない。真加部俊郎は、途切れ途切れの声で訴えた。

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「……魔女の、心臓は、直ぐには悪くならない。移植も容易だ……百合香の知人の男……彼ならば簡易手術ができるはずだから……僕が死んだら……直ぐに呼んで」
「何を言ってるんだ、アンタは!」
「これで、さっちゃんは、助かるから……ごめんね……さっちゃんの心臓を奪うことに、なって……」
「気にしていないわ。百合香達を怨んでいないのと同様に、私は貴方を憎んでいない。貴方が魔女喰いの罪を犯してきたとしても、私が貴方を嫌う理由にはならない」
「相変わらず……優しい、ね」
 どろどろと血が流れていく。命が零れていく。くそっと、圭は毒づいた。瞬間、彼は真加部俊郎に手首を掴まれた。恐ろしい力に、骨が軋む。真加部俊郎は、圭の目を見つめて続けた。

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「ひとりにするなよ。さっちゃんを」
「わかった」
 圭はそう約束する。死にたがりで、気紛れな魔女を。小百合——永久子を、決してひとりにはしないと。託された者として誓う。そこで、真加部俊郎はふっと笑った。彼は子供のようにのびのびとした声で言う。

「だいすきだよ、さっちゃん」

 そこで、真加部俊郎の呼吸は止まった。
 魔女の心臓を巡る物語は、こうして終わったのだ。

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 ――――魔女は五月に死ぬ。
 ――――だが、五月以外には決して死なない

 そう、『何があろうとも』。

 三日月街には魔女がいる。
 それは都市伝説の一つだ。

 だが、圭はそれが都市伝説ではないと知っている。

 彼が知る魔女は不吉な女性だ。忌み事を喜び、死を望む。免許もないのにワゴン車を運転する危なっかしい女性だった。先日、圭はある男と約束を交わした。決して、彼女をひとりにはしないと。寂しい思いはさせないと。圭は、それを守っていくつもりでいた。だが、それを、彼女が―――永久子自身がどう思っているのかは知らない。

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 手術は終わった。静養していた百合香の店から、永久子が歩いてくる。圭は用意していた花束を突き出した。百合を中心として、様々な花をまとめた品を手にして、永久子は小さく鼻を鳴らす。
「こういう時は、薔薇の花束でも用意しておないとかっこうがつかないんじゃない?」
「お前、そういうの嫌がるだろ」
「まあ、馬鹿にはするわね」
「心臓の調子はいい?」
「おかげさまで。百合香も、休ませてもらう間に私の血を輸血したせいで大分調子がよくなってきたそうよ。これで、五月は越えられそうね」
 永久子と圭は歩き出す。話をしたいことがあった。
 二人は近くの喫茶店へと向かった――――。

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「真加部の研究を引き継ごうと思う」
 あの廃病院には、彼が長年研究し続けた、魔女に関する資料が遺されていた。
 それは、呆れるほどの量だった。それでも真加部は望む答えを見つけることが出来ず、次第に狂気に囚われたのだろう。
 今回の件で圭が思い知ったのは、圧倒的な情報の不足と、絶望的なディスコミュニケーションだ。
 魔女と人間が共に生きる。
 思い返せば、全員の目的は共通していたのに、それぞれがそれぞれの方向に突っ走った結果がこの顛末だ。
「だから俺は、この街と魔女の秘密を知りたいと思う」
 そして叶うなら、全ての魔女と魔女を取り巻く人々のためにそれを役立てたい。
 圭がそう告げると、永久子は「貴方らしいわ」と苦笑した。 
 ちなみに。
 永久子が静養している間に圭はあの骨董屋を訪れた。
 『土産話』に対する反応は、正直薄かったが。
 圭の決意表明の方は、何故か赤子にも猫達にも大ウケだった。

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『三日月街には魔女が生まれる。そこには秘密がある。ソレさえわかれば、心臓の代わりも見つかるかもしれない』
 かつて、赤子の語ったことだ。永久子が小百合だったことにより、ソレは最終的には必要なくなった。だが、真加部の研究は、確かにその秘密に触れかけていたのだ。魔女は街の中心にある、魔力に満たされた旧い樹から生まれる。そこに、夢でお告げを受けた夫婦が訪れ、赤子を受け取るのだ。真加部の研究所には、早熟な『赤子の実』をもいだらしい、魔女の『できそこない』も置かれていた。既に死亡していたが、少し前までその心臓は鼓動をしていたようだった。切りだせば、永久子の心臓の代わりに使えたかもしれない。だが、それを使用する展開にならなくてよかったと、圭は心から思った。

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 今、喫茶店で、圭は言う。
「樹の下には、かつて始まりの魔女が埋められたという。彼女について調べれば――そうして、街の秘密に深く触れていけば、魔女についてもっとわかるかもしれない」
「危険な決意よ、圭。そのうち、貴方も魔女の深淵に呑み込まれるかもしれないわ」
「だが、そうすれば……もしも、魔女が普通の人間のように生きたいと思ったとき、それを叶える術も見つかるかもしれないだろう?」
 圭は言う。永久子は軽く目を見開いた。溜息を吐いて、彼女は続ける。
「全ては私のため……ね。相変わらず、斜め上だけれども」
「それが、俺だからな」
 さらりと、圭は答える。意表を突かれた顔をした後に、永久子は笑った。 

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 笑いが収まった後、永久子はぽつりと呟いた。
「賭けをしたわね」
「………ああ」
「五月までに心臓を取り返したら、あなたの勝ち。でも、あなたが勝ったら私は生きること。これから先もずっと死ぬことは許さないと」
「そうだ」
「残酷なことを言うわね。私は他の誰もが簡単に死ぬ中で、生きることに飽きているっていうのに」
 永久子は唇を尖らせる。圭は穏やかな目を見せた。彼は静かに語る。
「真加部俊郎に約束をした。俺はずっと、お前を守るし、一緒にいる」
「それでも果てはあるわ。貴方は死ぬ。私は、よっぽどの不運に見舞われない限りは死なない」
「だから、お前が俺と一緒に歳を重ねて死ねる方法を、俺が見つけるから」
「……傲慢ね。私がそれを望むと思って?」
「ああ、きっと、望むよ。最後まで共に生きよう、永久子」

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 圭は告げる。永久子は唇をほころばせた。胸に、彼女は掌を押し当てる。己の心臓の鼓動を確かめて、永久子は言った。
「それって、まるでプロポーズみたいね」
「そう聞いてもらっても、構わないんだけどな?」
「あら、魔女との契約に冗談は許されないわよ?」
「冗談じゃないって言ったら?」
 緊張しながら、圭は真剣に続ける。永久子はくすりと笑った。謡うように、彼女は囁く。
「考えておいてあげるわ……そう、人生はまだまだ長いのだから」
 そう、心臓は戻った。永久子はぎゅっと胸を押さえる。まるで、真加部俊郎を失った傷を嘆くように。痛みを抱えながらも、魔女の日々は続く。永久子は喫茶店の窓の外を見る。圭もそれに倣った。視線の先には、青い空が広がっている。

 もうすぐ、五月が来る。
 それでも、五月に死ぬ魔女は生き続けるのだ。

 圭と魔女の日々は終わらない。
 胸の中の、温かな鼓動と共に。

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どどりあ 2021-11-10 14:37:17

毎週楽しみにしてます!


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江鈴 2021-12-18 16:01:57

ハッピーエンドで心があたたかくなりました!
素敵な物語に参加できてとても楽しかったです。


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綾里けいし 2021-11-13 17:52:51

>どどりあさん
温かなお言葉ありがとうございます。大変励みになります!


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雛月 2021-12-28 07:52:52

綾里先生と皆様が書かれる続きを読むのも、続きを考えるのも、とてもとても楽しかったです。
夢のような時間でした。
ありがとうございました!


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